0.0. フナブ・ク の日に、
パカル・ヴォタンの預言を伝える。
奇跡的に、パカル・ヴォタンの墓に入ることになる。
7年ぶりに、墓の中で、パカルと交流する。
7年前に、一緒に入ったホゼが、紹介した前回のパレンケのDVDで、
いかに奇跡的に、入れたか、
そして、その意味を、
マヤの預言と、日本の意味を考えたいと、語っていた。
その奇跡が、また、起こった。
ホゼの最後のメッセージとして、
弟子のステファニーが昨年、世界に送ったメッセージのなかの文章で、こう語っていた。
◆
ホゼの死は、パレンケでのパカル・ヴォタンの最後の埋葬と関係する
シンクロとして見ることができます。
彼の72歳の誕生日(2011年1月24日)の頃、
パレンケのパカル・ヴォタンの墓の蓋が永遠に閉じられました。
比類のない芸術性と象徴性を持つパカル・ヴォタンの墓、
そしてそこに埋められた人の魂の神秘は、
ホゼの人生の目的に大きな影響を与えました。
ヴォタンの墓に記号化されたメッセージの意味は、
知識と悟りに向けてホゼの人生を形作りました。
彼の旅立ちもまた、数字的にパカルと絡んでいます。
ホゼは、72回目の誕生日から58日後に地球を旅立ちました。
(ステファニー・サウス著 「時間、シンクロニシティ、改暦
:ホゼ・アグエイアスの預言的人生と仕事」)
拙著『「マヤの叡智」の常識』第3章より
◆
したがって、今回の旅で、パカルの墓に入るという三次元的な奇跡は、
封印していた。
ふとしたきっかけで、墓に入ることを口にしてしまうことになり、
その表明が、成就する。
■
有識者のなかでもっとも優れていたのは偉大なる時間の旅行者、パカル・ヴォタン。
異次元から地上に降り立った彼は、偉大な地ケム(訳注:エジプトの古名)の建設者たちの間で知られていた知識パターンに従って、巨大な宮殿を建てさせた。
宮殿の向かい側には知識の神殿を建て、それを自らの墓とします。
そして、旅立ちの時と帰還の時の預言と宣言をこの墓に残したのです。
■
という正確な、パカルの意味を
正午に、0.0.フナブ・クの儀式に語った。
その後、
パカル・ヴォタンの墓に、特別に入れることになる。
夜9時、パレンケの遺跡に入る。
星が美しい、金星も、パレンケの西の空に輝いている。
金星は、マヤの叡智と深くかかわる。
碑銘の神殿の正面、正午に儀式をした場所から、登る。
そして、(7年前の写真を先日、facebookで紹介した)、
そのピラミッドの9段目から、
宮殿を見下ろす。
懐かしさが、どこからのものなのか?
そして、ピラミッドの中に降りていく。
懐かしい。
そして、アルベルト・ルースが3年間、この管を頼りに掘り進んだ、
「地球霊の通話管」に触れながら、石室まで、降りる。
7年ぶりの石室。
ナチュラル・マインド・メディテーションを行い、
パカル・ヴォタンと語り合う。
ピラミッドを出ると、蛍が光を。
誰かが、ホゼ・アグエイアスかしら、と言う。
神殿の前に、だれからともなく、全員、大地の上に寝転がる。
星を、宇宙を、いや、さらに、もっと、深いものに抱かれた。
また、蛍が、碑銘の神殿の前に、ひとつ、光る。
上弦の月が、こんなにやさしく、感じられる。
そして、半月でも、その光は明るい。
娘の真愛(MAYA)が、宮殿が、宇宙に浮かんでいる。と
「マヤの叡智」が出てきた理由
――正確には、周期が終わるちょうど60年前に。その時「マヤン・ファクター」がもたらす法則が、歴史のサイクルの中に入ってきたのです。1952年6月15日にメキシコ、チアパス州のパレンケで、謎に満ちたパカル・ヴォタンの墓が発見されたのです。そこにあったのは、マヤの謎というアーチを支えるかなめ石とも言えるものでした。マヤの王たち(少なくとも王のうちの一人)が、エジプトの王と同じようにピラミッドのなかに埋葬されていたのです。パカル・ヴォタンの墓はきわめて見事な墓でした。そして後に、その究極の目的が、マヤの謎に対して人々の興味をひきつけることだったということが判明しました。マヤの謎には、来るべき千年紀における人類の命運に関わる法則の手がかりが隠されていたからです。
数字で暗号化されたテレパシー的なメッセージを通じて
「マヤン・ファクター」のことを教え始めたのは彼(パカル・ヴォタン)なのです。
その数字は彼の地球での輪廻転生のタイミングに関連していていました。それは、136656という数字に集約されていました。これは、大周期の始まり(マヤのグレート・サイクルの始まり)から彼が権力の座につくまでの期間、すなわち長期暦にして136万6560日目の西暦631年、ちょうど52年周期で72回目、すなわち3744年目を表しています。この3744という数字は、数学的にも天文学的にも、大周期のなかでもっとも調和がとれた数字だということが後にわかりました。
パカル・ヴォタンのタイミングには寸分の狂いもありません。彼はメッセージをとおして、私に、自分が地球に送られた銀河系マヤのミッションの中心的存在であること、そしてその任務は、周期が閉じるときに起こる重大な出来事に向けて、人類に準備を促すことだったと明確にしました。そして、この情報を理解して人々に伝えることができるのは、私しかいないことは明らかでした。でも、こうした知識を私は誰にも話しませんでした。
( 『マヤン・ファクター 新版』より )
パカル・ヴォタン(マヤ古代王朝11代目の王) の預言
(『コズミック・ダイアリー 2011』より )
パカル・ヴォタンの教えは、地中に深く隠され、
ある時期に、発見されるように仕組まれた。
つまり、テルマ(埋蔵経)だった。
メキシコのパレンケにある
碑銘の神殿と呼ばれるピラミッドが完成し、
預言を刻んだこの石棺の蓋の絵とともに、パカル王の墓の石室が
封印されたのが、692年。
1952年6月15日。ちょうど、1260年後。
パカル王の墓があるという情報は、いっさいないなかで
3年間掘り続けた考古学者によって石室の扉が開かれ、
奇跡的に発見された。
1952年、692年から1260年後。12:60の暗示。
人間の意識が、人工的な12:60の計時周波数に支配され、
その勢いが加速する時。
パカル王の墓が閉じられたのが、692年。
ちょうど、1320年後が2012年。
2012年、692年から1320年後。13:20の暗示。
この2012年までに、13:20の計時周波数であらわされる
自然の時間を取り戻すようにというメッセージ。
1952年、その時から、マヤの叡智が明かされ、2012年のマヤの預言が、
伝えられることになった。
12:60から、13:20へ。
ホゼ・アグエイアスが受け取った預言を説明します。
マヤ人が数学的に知っていた常に13:20の比率を持つ自然な計時周波数があります。
ツォルキンという聖なる暦は13:20の比率に基づいています。
13日×20日は260日周期です。
時計というものは美化されているのです。
そしてすべてがその人工的な時間に基づいているのです。
しかし、この文明はこの文明をサポートするシステム、生物圏を破壊しつつあります。
機械を動かしつづけるために、自然が補充できるよりもはるかに速い速度で
生物圏を食い尽くしていっているからです。
13:20の計時周波数に戻らなくてはなりません。
最初のステップが暦を替えることです。
マヤ族が使っていた多くのカレンダーの一つが28日13ヶ月の暦です。
これは自然なサイクルです。
もし人類が自然ともう一度統合されるのであれば、
私たちは女性の自然な生物学的なサイクルに沿って
私たちを調整する暦に戻る必要があります。
これはただ単に一つのメッセージです。
人類が種として最悪の事態を避けようとするならば、
宇宙的秩序の普遍的な性質を持つ時間のサイクルに戻らなくてはなりません。
それが13ヶ月、28日なのです。
註【柳瀬】
考え方のシステム(思想体系)としてのカレンダー
マヤに対する私の関心は、学術的なものでも専門学的なものでもないということをご理解ください。炭素年代測定法(訳注:木片、骨、貝殻などの炭素14の量をもとに、その生物が生きていた年代を推定する方法)から仮説を立てて議論するといった、学術分野としてのマヤの考古学には興味はありませんでした。私にとって重要だったのは、考え方のシステム(思想体系)としてのカレンダーだったのです。そして、そのマヤのカレンダーの考え方のシステムを適用して導き出された、マヤの預言が重要だったのです。
マヤを、銀河のナビゲーターだとする私の解釈は、事実としても考古学的にも根拠がないという人もいるでしょう。しかし、それはたいした問題ではありません。『マヤン・ファクター』は、考古学の本ではないからです。むしろ、神秘主義を実証主義から切り離そうとする、現代人が意識のなかにもっている境界線というものに「マヤン・ファクター」は、立ち向かって、反論しているのです。神秘主義はすべてを包括しています。なぜなら、人の知識は(知覚による) 宇宙の認識から来ています。そして、その宇宙の認識は、宇宙の根源的な全体性と相互関係のように符合している内的(霊的)な認識からうまれるものだからです。
実証主義者(多くの考古学者も含めて)は、そんなことは立証できないとか、認められないと言って激しく批判し、可能性すら否定します。ここに大きな分かれ道――西洋文明の致命的な失敗――があるのです。実証主義者は、神秘的な「想像する者」よりも自分たちが優れているという固定観念に固執するがあまり、自らを改めるという余地をすっかり放棄してしまいます。
紛れもなく歴史のサイクルは必然的に終わりを迎えることになります。
これがまさに「マヤン・ファクター」の重要なポイントです。――歴史で見落とされた事実なのです。単純な論理や、経験からもわかるように、知性というものは、無数にある偶然とか、行き当たりばったりの現象ではありません。
宇宙はすべてを統一する知性によって動かされていて、そのなかにはあらゆる可能性があります。われわれの知性は、まだ最高の知性ではなく、まだ進化しているのです。そして、マヤの知識体系の基礎は、地球以外の叡智からきています。こうした見方の正当性を理解するためには、宇宙の叡智という高次元の力の可能性を信じる、そういう後ろ盾だけが必要なのです。そして、そうした信念は、実は、心の中に備わっている本質的な知恵に根ざしているのです。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/キニチ・ハナーブ・パカル1世
キニチ・ハナーブ・パカル1世(K’inich Janaab’ Pakal I、603年 – 683年[1])は、古典期後期のマヤの都市であるパレンケの王で、パレンケを大国に成長させ、また盛んに建築を行った[2]。1952年に王の墓室が発見された。
パレンケには同名の支配者がもう一人いるので、「1世」をつけて呼ばれる[3]。略してパカル大王とも呼ばれる。
名前のキニチは「偉大な太陽」、ハナーブは不明、パカルは「盾」を意味する[1]。
生涯
キニチ・ハナーブ・パカル1世は603年に生まれた。当時のパレンケはたびたび他国からの侵略を受けており、611年には当時の超大国であったカラクムルに略奪されている[4]。
615年に12歳で即位し、80歳で没するまでの68年間にわたってパレンケを統治した[5]。治世の詳細は不明だが、それまで小国だったパレンケは、パカルが没するころまでに安定した強力な国に成長していた[6]。
治世の初期には東のポモナや西のコマルカルコを破ることでパレンケを安定させた[6]。659年には遠く離れたティカルの王ヌーン・ウホル・チャークがパレンケを訪れている。目的は明らかでないが、共通の敵であるカラクムルに対抗するためかもしれないという[7]。
パカルはまた大規模な建築を行ったことで知られる。宮殿の家E、B、C、A、Dを造り(AとDは没後かもしれないという)[8]、また碑文の神殿の建設を開始した[6]。