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テオテイワカン 月のピラミッドから 動画
テオテイワカン 月のピラミッドから月のピラミッド から 「高天原に神留座す」標高2200メートルのこの高天原、テオティワカン。思わず、天津祝詞の言葉が、浮き上がってくる この11-12あるステージのようなところで、どんな芸術を、祈りを、その神々の時代に行っていたのであろうか?このすべてはピラミッドは、赤く塗られていたという。火が、松明が、そのして、歌が、踊りが、祈りが、このあまりにも、規模が大きい、神楽殿のような、すべての台座で宇宙に向けて、いや、高次元に向けて、精神界と現象界の循環としての、火が、音が、踊りが、そして、響く祈りが、再び、必要なのを感じる。2012年、メキシコの人々は、何も、ここで、祭りを、儀式を、行わないのであろうか?7年前に来た時と同じように、祭りの創造に、この位置から、意識を合わせる。退社した時のビジョンは、満月祭り(これは17回連続行ったが)のあと、2006年から、世界の聖地での「祭り」の創造を意識したことを思い出す。2012年、人類は、何を生み出すのだろうか?月のピラミッドで、宇宙への舞をイメージして、太極拳を輪になってメンバーが、行う。 2月28日(火) ◆銀河の月22日、KIN171 青い月の猿 ホゼが、青いスペクトルの猿猿のキーワードの意味を多次元的にチェック。 ホゼ・アグエイアスは、青い猿です。テオティワカン その体験も「神々が大地に触れる場所」を意味する偉大なピラミッド都市、テオティワカンでの体験とは較べものになりませんでした。テオティワカンの「太陽のピラミッド」に登って山々を眺めやると、マヤの時代のままの澄みきった青空の下に、雲がまだらな影を落としていました。そのとき、心の奥底から、「知りたい」という憧れのような感情が湧き上がってきたのです。私には、それが私がほしがっているものについて単に「知りたい」のではなく、私が心から熱烈に望んでいるものの内側にあり、そこからやってくるものを「知りたい」のだとわかりました。ピラミッドを下りながら、私は畏敬の念に打たれ、テオティワカンという調和のとれた都市遺跡に対する驚きで心がいっぱいになりました。そして自分自身に誓ったのです。その誓いは「ここで起こったことがどんなことであっても、きっとそれをつきとめよう――ただの部外者や考古学者としてではなく、真の理解者、先見者として」【マヤンファクター p41】
柳瀬 宏秀さんの投稿 2012年2月29日水曜日
2012年2 2月28日(火) ◆銀河の月22日、KIN171 青い月の猿
ホゼが、青いスペクトルの猿
猿のキーワードの意味を多次元的にチェック。
午前:太陽のピラミッドで有名な世界遺産・テオティワカン遺跡
◆紀元前2世紀から後7世紀まで栄えた、メソアメリカ最大級の都市 20万人
黒曜石
信仰の中心 太陽のピラミッドの地下に洞窟
壁画に彩られたテパンティトラ、テティトラの宮殿、
テオティワカン
その体験も「神々が大地に触れる場所」を意味する偉大なピラミッド都市、テオティワカンでの体験とは較べものになりませんでした。
テオティワカンの「太陽のピラミッド」に登って山々を眺めやると、マヤの時代のままの澄みきった青空の下に、雲がまだらな影を落としていました。そのとき、心の奥底から、「知りたい」という憧れのような感情が湧き上がってきたのです。私には、それが私がほしがっているものについて単に「知りたい」のではなく、私が心から熱烈に望んでいるものの内側にあり、そこからやってくるものを「知りたい」のだとわかりました。ピラミッドを下りながら、私は畏敬の念に打たれ、テオティワカンという調和のとれた都市遺跡に対する驚きで心がいっぱいになりました。そして自分自身に誓ったのです。その誓いは「ここで起こったことがどんなことであっても、きっとそれをつきとめよう――ただの部外者や考古学者としてではなく、真の理解者、先見者として」
【マヤンファクター p41】
1966年、私はこのような思いを胸に、ある実験着手しました。
同時に、芸術こそが神秘主義的な体験のもっとも創造的な表現手段だったとすると、絵を描くことによってマヤやテオティワカンという古代文明を生み出した精神状態に入ることができるのではないかと考えたからでした。私が描く絵は周期ごとに変わり、さまざまなインスピレーションを受けたのですが、そのなかでも絶対に間違いなく、私が没頭したのはテオティワカンの壁画、マヤの陶芸と象形文字による作品でした。鮮やかな色彩、凝縮された象徴的模様を通して何かを伝えようとする力、さまざまな特徴や形を幾何学模様に組み入れながらも、波打ちながら響いてくるような全体のデザインこそが、古代マヤ・メキシコの芸術の特徴であり、私にインスピレーションを与えてくれたものでした。
私にとっては、最も意義深かったのは、これらの絵を描くプロセスでした。なぜなら、実際に、古代の絵師にして、元型をつくりあげたトラクイロ(古代メキシコの絵師)と交わることができる場所に入ることができたからです。私の心は開き、さまざまな記憶が私のなかであふれんばかりになりました。私には、あの記憶が過去世のものかはわかりませんが、しかしあれは古代人の意識の流れから出てくる集合的な記憶でした。私は、内側から理解しはじめたのです。
優れた画家は賢く、その心には神が宿る。
彼は自らの心と会話する。
彼は神性をものに注ぎ込む。
――ナワトル語のことわざ
【マヤンファクター p50】
テオティワカン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
テオティワカン(ナワトル語: Teōtīhuacān、スペイン語: Teotihuacan)とは、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡[1][2]。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、メソアメリカの中心的都市として機能していた。
概要
テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。
社会についてはあまり知られていないが、規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に階層が分化し、発達した統治組織があったものと推測されている。市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった[3][2]。
テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、これは12世紀頃にこの地にやってきて、すでに廃墟となっていた都市を発見した、メシカ人(アステカ人)が命名した。アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした。
古代都市テオティワカンとして、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
歴史
この地は形成期後期にすでに集落があったが、紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコ(スペイン語版、英語版)(ナワトル語: Cuicuilco)がシトレ火山(英語版)(ナワトル語: Xitle)の噴火によって埋まり、またポポカテペトル山も噴火した。このために人々がテオティワカンの地に移住し[4]、テオティワカンは都市として急速に発展した。テオティワカンは西暦紀元前後から7世紀なかばまで都市として使用され、その時期は4期に分けられる[5]。
- ツァクアリ相(1年 – 150年):この時期にテオティワカンははじめて都市として成立し、太陽と月のピラミッドが作られた。
- ミカトリ相(150年 – 200年):南北を結ぶ道路(死者の大通り)が建設された。
- トラミモルパ相(200年 – 350年):交通・水利・祭祀・住宅・産業などのシステムが整備された。
- ショロパン相(350年 – 650年):この時期に人口がもっとも増えた。
テオティワカンは国際的に大きな勢力を持っており、1000キロメートル離れたマヤ地域にも影響は及んだ。378年にはテオティワカン系のシヤフ・カックがエル・ペルーとティカルに侵入し、ティカルの古い石碑を破壊して新しい王朝を建てた[6]。426年にコパンとその衛星都市のキリグアを建設したのもテオティワカン系の人間だったらしい[7]。テオティワカン様式の芸術は古典期マヤ文明に大きな影響を及ぼした。
都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。しかしながら人口の集中に伴い7世紀にはいると急激に衰退し、やがて滅びを迎えた。衰退の主要な原因としては、火事の発生、漆喰の生産のために木材を大量に燃やして森林破壊が起きた、旱魃による農業の衰退、およびそれらに伴う内乱の発生とメスキタル(イダルゴ州)の狩猟採集民の侵入などがあげられる[8]。