ウシュマル

2012年  撮影 柳瀬宏秀

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2005年


銀河の月の27日  テレクトノンでは、天上歩行 4日目
ウシュマル、カバー で、10バクトゥーンのマヤに、意識をあわせる。
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ウシュマル UXMAL
 雨の神チャック。その無数のチャックの数が、52であったり、
カレンダーになっている。


 尼僧院は、人類学博物館がこれを模した設計であるように、独特の設計
と数字が部屋の数にも顕われている。フランク・ロイド・ライトがこのプウク様式
のこの尼僧院の建築に魅せられ、大きな影響を受けたという説明を聞いた。
日本に大きな影響を受け、大きな影響を与えた旧帝国ホテル建築家。
今、ライトの建築を紐解いてみると確かに、この尼僧院のマヤのデザインや、
入り口、窓の数が、真ん中をはさんで、左右対称になっている美しさに、マヤの
数学から来た建築美が、天才ライトを通して、現代人の感性と現代の建築家に
浸透させた何かを感じる。

この尼僧院の中央から、声を出すと、その音響効果に驚かされる。

ウシュマル全体を見渡せる大ピラミッドの上の、祭祀が行われていたであろう
王の座る椅子の前で、総督の館などを見下ろしながら、
共振の人3人とグループミーティングをする。感応した一人が、泣き始めた。


虹の橋の瞑想も行う。
マヤの中のすべてのネガティブなものを吸い込み、自分の中で浄化し、
ポジティブなものに変えて吐く。

ウシュマル遺跡は、イグアナのマンション、とガイドが言うように、
多くのイグアナが遺跡とマッチして共存している。

2012 photo by YANASE

UXMAL
ウシュマルの尼僧の僧院。
東は、赤。
北は、白。
西は、黒。
南は、黄色。
に塗られていたという。

フランク・ロイドが、影響を受けた。
彼が、ヨーロッパに、この左右対称の様式を広げた。


2012年 ウシュマル

ウシュマル
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウシュマル

ウシュマル (Uxmal) は、メキシコユカタン州にある古典期後期から後古典期マヤ文明の遺跡。

概要

メリダの南方78kmの地点にあり、カンペチェへ向かうメキシコの高速自動車国道261号線で、メリダから110kmの地点にある。ウシュマルという地名は、オシュ=マハアルと発音されたと考えられ、マヤ語の研究者の間でその由来について論争があるが、コロンブス到着以前の古いマヤ語の名称と考えられ、「三度にわたって建てられた町」という意味である(cf.カラコルの旧名「オシュ=ウィツア」を見よ)。

多くの観光客の目的地となるためにウシュマルの建造物の整備や復元にたくさんの労力が注がれる一方で、細々とであるが真摯な考古学的な発掘調査や研究がなされてきた。この都市の占地が行われた時代はよくわかっていないが、人口は、現時点では概算で2万5千人ほどと推定されている。 今日目にすることのできる大多数の建造物は、だいたい紀元700年から1100年の間に建てられたものである。

近世までの歴史

マヤの年代記によれば、ウシュマルは、フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる。このことは、ウシュマルと同盟者チチェン・イッツアの衰退とマヤパンへユカタンの権力が移っていく過程と関係しているとおもわれる。 シウ家が、マニへ首都を移すとともに、ウシュマルの人口は減少していった。

スペインによる征服後、シウ家自身は、スペインの同盟者となったが、初期植民地時代の記録によると、ウシュマルは、1550年代までは、ある程度の数の人々が住む重要な場所であったが、そこにスペイン風の町が建てられることはなくやがてウシュマルは放棄されることとなった。

ウシュマル遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック・キャザウッドの石版画

ウシュマル遺跡「魔法使いのピラミッド」

ウシュマル遺跡の「尼僧院」

現地の状況

ウシュマルの復元作業は、建物が通常より良好に残っていたおかげで他の多くのマヤ遺跡よりも良い条件で行うことができた。建物によく使われる漆喰のツナギを使用しないで精巧に切り取られた切り石を使用して建てられている。ウシュマルにある建造物は、優雅さと美しさにおいてパレンケの建造物に匹敵するものである。ウシュマルにおいては、その前半の時期においては、その大部分がプウク式の建物である。保存状態が良好であるため、一般の観光客にも当時のウシュマルの祭祀センターの様子をほぼ完全な形で想像させることのできる数少ないマヤ遺跡のひとつとなっている。

よく知られている著名な建造物は下記のとおりである。総督の館壮大な基壇の上に長いがそれほど高くない建造物が建てられている。これは、コロンブス到着以前のメソアメリカでは、最長の外観をほこる建造物である。魔法使いのピラミッド英語版)別名「占い師のピラミッド[1]。高さ36.5メートルの巨大なピラミッドの土台は楕円形に近い形で、長さが73メートル、幅が36.5メートルある。急傾斜で有名な118段の階段を上ると、頂上には神殿がある。このピラミッドはいくつかの点で通常ではない良好な状態の建造物である。テオティワカンのピラミッド等と同じで小さな神殿が順次大きな神殿へと拡大された。魔法使いの老婆が暖めた卵から生まれてきた小人が、超自然的な力で一夜のうちに造ったというマヤの伝説から、「小人のピラミッド」とも言われている。尼僧院内面と外面に精巧で美しい彫刻が施されたウシュマルにあるいくつかの中庭を方形の回廊状に囲む良好に残された建造物の中でもっともすばらしい建物である。なお、尼僧院とはスペイン人によってつけられたあだ名で、実際には支配者の宮殿と考えられる。大球戯場メソアメリカ独特の球戯が行われた場所で、901年にチャン=チャク=カクナル=アハウという王によって奉献されたという銘文が刻まれている。

ウシュマルには、ほかにも注目すべき建物や多くの神殿ピラミッド、方形回廊状建物や記念碑、埋まったまま保存されている建物がある。

マヤ文字が刻まれた銘文の多くは、一連の石碑に刻まれているが、一つの神殿に対になるようにグループになっているわけではない。この石碑に刻まれているのは歴代のウシュマルの王たちである。また石碑は、たおれかかっていたり、ばらばらに壊れそうな兆候を示しているので、建て直したり修復したりする必要がある。